1.「人的資本経営」とは
人材・組織マネジメントの分野で、近時話題になっているものとしては、「人的資本経営」と「ジョブ型雇用」の2つが代表的存在だと思われます。いずれも、『最近名前はよく聞くけれど、中身まではなかなか……』という方がかなりいらっしゃるのではないでしょうか。
この連載は、中小企業の皆様に最新の話題を提供して今後の経営に役立てていただくものですから、どちらも避けては通れません。
そこで、今回はまず、人的資本経営と中小企業の関わりについて、その基礎的な部分をお伝えすることにします。
人的資本経営について、経済産業省は『人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方』と定義づけています。
この人的資本経営について理解するためには、人材を「資本」として捉えるということの意味を理解する必要があります。
2. 企業の価値は財務諸表だけでは測れない
従来、企業の価値を測る方法としては、貸借対照表や損益計算書などの財務諸表に表れる財務情報が重要視されていました。しかし、財務諸表に表れる数字は、あくまで「過去の実績」です。そのため、この連載のテーマでもある「VUCA(先行き不透明)の時代の経営課題対応」を考えるうえでは、それだけでは足りません。この問題意識が、財務情報以外の「非財務情報」への注目につながったのです。
財務諸表は「健康診断書」に例えられることがあります。健康診断では、身体の健康状態は測定できても、本人の能力やモチベーションの高さなどは把握できないですよね。どんなに健康なビジネスパーソンでも、能力やモチベーションが低ければ、ビジネスの世界で生き抜いていけないのと同じで、企業も財務の健全性だけでなく、優れた経営戦略や高い技術力、ブランド力、そしてイノベーションを生み出す力などがなければ、今後の企業間競争を生き抜いていけません。
それらの「生き抜く力」を判断するのに必要なものが非財務情報であるため、企業の価値は財務情報だけでなく、非財務情報も含めて把握されるべきというのが国際的な主流となっています。そして、非財務情報の中心となるのが「人的資本」なのです。
資本とは、ご存じの通り企業経営の元手となるものですが、人材を「資本」として捉えるということは、人材に投資してその価値を向上させ、企業価値を高めるという観点を経営戦略に導入するということになります。
つまり、人的資本経営とは、企業の経営戦略を構築する際の重要な要素として人的資本を位置づけ、どのように採用し、どのように育成し、どのように成果を発揮してもらうかを考え、実行し続ける経営ということになります。
そして、この人的資本経営を実践するための経営戦略を立てる際には、自社の人的資本について正確に把握する必要があるのです。
3. 人的資本の「可視化」とは
企業が自社の人的資本を把握して経営戦略に役立てるためにも、また、特に上場企業の場合は外部のステークホルダーがその企業の価値を把握して投資判断等に役立てるためにも、人的資本等の非財務情報を「見える化(可視化)」する必要があります。ところが、人的資本などの非財務情報には、財務諸表のような公的なフォーマットがありませんでした。そのため、人的資本をどのように把握し、開示するかが問題となったのです。
この問題意識を受けて、2018年に国際標準化機構(ISO)が「ISO30414(人的資本に関する情報開示のガイドライン)」を策定し、2020年には米国証券取引委員会(SEC)が上場企業に対して人的資本の可視化を義務づけるなど、国際的な流れが確立しつつあります。
日本でも、岸田首相が2023年度から大企業に対して非財務情報の可視化を義務づけることを表明し、内閣官房が「人的資本可視化指針」を公表しています。
人的資本の可視化については、『大企業が対応しなければいけない話で、中小企業は関係ないのでは?』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、外部に開示するか否かの問題とは別に、中小企業であっても前述の「生き抜く力」を把握する必要性は同様に存在します。その際に、ISO30414や人的資本可視化指針は大いに参考になります。
4. 中小企業が自社の人的資本を把握するためのポイント
では、中小企業が自社の人的資本を把握するためには、どのような点に着目する必要があるのでしょうか。今回は、国際規格であるISO30414の枠組みを参考に考えてみることとします。ISO30414では、以下の項目に関する開示のガイドラインを定めています。
①コンプライアンスと倫理
②コスト
③多様性(ダイバーシティ)
④リーダーシップ
⑤組織文化
⑧採用、異動、離職
⑨スキルと能力
これらはすべて重要だからこそ、測定や開示の検討対象となっているわけですが、今回は中小企業の人的資本経営の基本となるであろう3つの項目に絞って説明していきます。②コスト
③多様性(ダイバーシティ)
④リーダーシップ
⑤組織文化
⑥組織の健全性・安全性・ウェルビーイング
⑦生産性⑧採用、異動、離職
⑨スキルと能力
⑩後継者の育成(サクセッションプラン)
⑪労働力の利用可能性ここで思い出していただきたいのが、前回お伝えした「人材年表」です。自社の人材を年齢別、部署別(スキル別)に整理したもののことですが、この人材年表を人的資本経営の出発点にもできるのです。
中小企業の場合は、人的資本について、開示を意識することよりも人材・組織マネジメントに役立つか否かの面を強く意識することになるでしょう。
(1)多様性(ダイバーシティ)
第1は、項目③「多様性(ダイバーシティ)」です。多様な人材が協働することで、経営面にプラスの効果をもたらすことができるという考えが基になっています。VUCAの時代だからこそ、多様な人材で組織が構成されたほうが変化に対応しやすいという面もあるでしょう。
人材年表でも、従業員について、年齢・性別・障害の有無・国籍・勤務年数・スキル・専門性・学歴などの観点からの分類を行なうことで、自社の人材の多様性の程度が把握できます。さらには、従業員の「ものの考え方」について多様性があるかも考察できるとよいでしょう。
年齢など統計数字に表すことのできる多様性を「デモグラフィック・ダイバーシティ」というのに対して、認知の仕方、判断の仕方などの多様性を「コグニティブ・ダイバーシティ」といいます。日本社会は同調圧力や均質性が高いですが、そのなかで人と違ったものの見方をできる人材がいることは、イノベーションの可能性を高めることにつながります。
少子高齢社会である日本では、女性、高齢者、外国人などの多様な人材の積極的な活用が死命を制することになりますが、多様性の程度を明確化することは、採用や育成方針の明確化の第一歩となります。 中小企業の人材採用には難しい面もありますが、応募者に対して『貴方がわが社に加わってくれることは、組織としてプラスになります』と明確にメッセージを発信でき、説得力を増す効果も期待できるでしょう。
この多様性について注意すべきは、「多様でありさえすれば、それでよい」というわけではないことです。
あくまで多様な人材の「協働」があって、初めて経営に効果が生まれます。ダイバーシティについては、「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)」という形で表現されることも増えてきました。多様な人材を包摂(インクルージョン)して、人材相互の関係性を組織の目標という観点から高い次元に導いていくためには、管理職のリーダーシップが必要になります。
(2)リーダーシップ
第2は、その「リーダーシップ」です。よいリーダーの存在は、多様な人材が心理的安全性のある職場で活躍できるために必須です。項目④にありますが、これもまた人材年表を基本にして考えることができます。
ここでいうリーダーとは、管理職のことだと考えていただきたいのですが、現時点での組織の管理職は、ある程度年齢の高い従業員がほとんどを占めていると思います。
それ自体は問題ではないのですが、「果たして管理職としてふさわしいのか」と「次世代の管理職候補の育成に取り組めているのか」について、不断に問い続けることが人的資本経営においては重要となります。
人は資本であり、投資の対象であると考える人的資本経営においては、リーダーシップの有無や次世代リーダーの育成について、どれだけ時間や費用を投じているかが問われるからです。
実践としては、リーダーシップ研修を行なうことがメインになると思われますが、リーダーシップの育成には「リーダーシップ開発」と「リーダー発達」の2点があることを踏まえた研修が必要です。
前者は、管理職が部下などに対して、どのような対人関係を結ぶかという視点の問題です。先ほどの多様な人材の「協働」を実現するためには欠かせない視点です。それに対して、後者は、リーダー個人がどのようにスキルを高めていくかという視点の問題です。
これらの研修を、いつ、誰に対して、誰が、どのような内容で行なうかについても、ぜひ人材年表上で検討していただきたいところです。
(3)組織文化
第3は、項目⑤にある「組織文化」です。「組織風土」と言い換えてもよいでしょう。組織は人の集合体であり、それぞれの従業員が主観的にその企業や自分の職務についてどう考えているかという従業員エンゲージメント(従業員と企業の心理的な絆)やコミットメント(職務に関する主体性や責任感)の集積が、組織の文化や風土を作り上げていきます。
そのため、従業員個々の主観面について把握することが必要となります。さらに、客観面としては「定着率」(あるいは、裏返しとしての「離職率」)を把握する必要があります。その企業に従業員が定着してくれなければ、人材に「投資」しても大きな効果は見込めないからです。
定着率や離職率については、その気になればすぐに算出できると思いますが、従業員エンゲージメントやコミットメントについては、手間と費用をかけて測定する必要があります。しかも、1回限りの測定ではなく、定期的に測定してこそ、大きな効果を発揮するものです。
人的資本経営においては、自社の人材に対する戦略が真に効果を発揮しているかを確認するために、組織文化に関する把握が必要不可欠となります。エンゲージメントなどが低い場合には、それが企業側の施策に起因するものなのか、従業員側の個人的事情に起因するものなのかを見分ける必要もあります。その際にも、人材年表が活用できるでしょう。
たとえば、従業員の年齢によって迎えるライフイベントの影響を考慮して、企業としてもその従業員のワーク・ライフ・バランスに配慮する施策を講じることが、従業員の主観面にも大きく影響するはずです。そして、それは同時に定着率にも好影響を及ぼすことでしょう。
今回ご紹介できなかった項目についても、今後の連載の中で重要なポイントについてはお伝えします。ぜひ、人的資本経営の視点を自社の人材・組織マネジメントに取り入れてみてください。