1. 現状維持バイアスという「壁」の問題
前回は「働きがい」に「働きかける」ための人材・組織マネジメントとして、「エンゲージメント」や「組織コミットメント」という用語(概念)を紹介しつつ、従業員との「対話」の重要性についてお伝えしました。その際に、従業員のスキル(技能)やマインドセット(考え方やものの見方)という要素が、時として壁となってしまうことにも触れました。
その例として、企業のDX(デジタルトランスフォーメーション)化を挙げましたが、DX化に限らず、企業が何かを改革や変革しようとする際に、従業員から抵抗を受けることが多々あります。
その原因の1つが「現状維持バイアス」です。人は、現在保有しているものに保有前より高い価値を感じてなかなか手放そうとしない傾向(保有効果)があったり、何かを得ることより失うことによる影響のほうを大きく感じる傾向(行動経済学のプロスペクト理論)があったりします。
それが、「今持っている技術を使い続ければ良いじゃないか」「変わりたくない」というような現状維持のための抵抗につながってしまうわけです。
この抵抗のような課題を人的資本経営の観点からいかにして乗り越えていくのかという点が、今回のテーマとなります。
2.「人材版伊藤レポート」と中小企業
経済産業省が人的資本経営を『人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方』と定義づけていることはすでに紹介しました。その実践については、伊藤邦雄一橋大学名誉教授を座長とした経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」が「人材版伊藤レポート 」(以下、便宜的に「1.0」といいます)を2020年9月に、同じく「人的資本経営の実現に向けた検討会」が「人材版伊藤レポート2.0 」(以下、同様に「2.0」といいます)を2022年5月にそれぞれ公表しています。
そのうち「2.0」のほうでは、冒頭で企業が直面する課題として、「デジタルスキルの習得が間に合わず、新たなツールに順応できない主に50代の社員と、若手の社員の間で、コミュニケーションの齟齬と価値観の相違が生じている」「社員が、自分のスキルが陳腐化することに不安を覚えるものの、他のスキルの獲得や、他の部門への異動には踏み出せないでいる」などの例が紹介されています。まさに、現状維持バイアスが「壁」となってしまっている例です。
このような課題について、「1.0」では、経営陣によるイニシアティブ、特にCHRO(Chief Human Resource Officer:最高人事責任者)の役割と、CHROと経営トップとの連携が重要であるとしたうえで、経営戦略と連動した人材戦略について、3つの視点(Perspectives)と5つの共通要素(Common Factors)を提示しています。
また、「2.0」では、「1.0」の内容を踏まえたうえで、さらに人的資本経営を実現するためのアイディアの数々を「実践事例集」とともに提示しています。
本コラムは、中小企業の経営者や人事労務担当者の方々を対象とするものですので、2つの「伊藤レポート」を単に紹介するだけでは、「わが社にはCHROなんていないです…」という声や、「実践事例集を見てみたけれど、名だたる大企業の例ばかりで自社に導入するのはとてもとても…」という声が聞こえてきそうです。
しかし、大切なのは「人的資本経営」という注目の用語に振り回されることなく、人材を適切に活用して、時代に対応した魅力と活力のある企業としていく、地に足の付いた「人材・組織マネジメント」ができているかどうかなのです。それは、中小企業でも実現可能な課題です。
以下、伊藤レポートが提言する人的資本経営に関する内容を中小企業でどのように実践、実現していくかについてお伝えします。
3. 人的資本経営の中小企業における実践は「働き方改革」から
近時は、「働き方改革」という言葉を耳にする頻度が減ったような気もしますが、「働き方改革」が現在進行中の大きな課題であることに何ら変わりはありません。たとえば、2023年4月1日からは、いよいよ中小企業も月60時間を超える時間外労働の割増賃金率の引き上げの対象 となります。
現在、インフレの影響もあって、政府が賃上げを要請する事態となっています。中小企業も人材確保のためにこの課題に正面から向き合わざるを得ないのですが、そのためにも長時間労働による残業コスト発生は避けなければなりません。
「働き方改革」は、従業員のワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)のためでもありますが、企業の生産性向上のためにも欠かせないのです。
この「働き方改革」について、厚生労働省は「働き方改革特設サイト 」を設けていますが、実はこのサイトで紹介されている「中小企業の取り組み事例 」が、人的資本経営の観点からもとても参考になる事例の宝庫なのです。
一例を挙げると、大阪府の株式会社山田製作所 は従業員数20名程度ですが、年間200社を超える国内外の企業が見学に訪れる、人的資本経営の点からも大いに参考になる企業です。
山田製作所が今日に至るまでの歴史は1つの「物語」でもありますので、詳細はぜひ「働き方改革特設サイト 」 や会社ホームページでご確認いただきたいのですが、見学者を惹きつける理由は、徹底した「3S(整理・整頓・清掃)活動」と、経営者と社員が、共に学び、育ち合う「共育(教育)体制」といった企業文化です。
これらは、経営者である山田茂会長が若き日に明確な方針を打ち立て、それを先代社長などに理解してもらい、築き上げたものです。「CHRO」という肩書きこそありませんが、経営トップ(先代社長)との連携も含めて、伊藤レポートが重要視している体制が実現されています。
山田製作所では、新卒の定期採用を長年続けてきていますが、新卒者は育成コストもかかるため、中小企業では即戦力人材を求めがちにもかかわらず、苦しくてもそれを貫いたのは「10年後の山田製作所」のためだそうです。
これは本コラムで以前お伝えした「人材年表」の考え方の具現化です。新卒者を採用し、ベテランと共に学び合う「共育」体制で10年後を支える人材を育てるあり方は「人への投資」そのものであり、人的資本経営の現れといえるでしょう。
山田会長が原点である3S運動に取り組んだ当初は、先代社長も含め、ほとんどの人が乗り気ではなかったそうです。しかし、山田会長が地道に運動に取り組んだ結果、先代社長が「2週間仕事を止めて工場を丸洗いする」という大きな決断をするに至りました。これは現状維持バイアスを乗り越えた象徴的エピソードといえるでしょう。
山田製作所は、その後も現状維持に甘んじることなく、変わり続けています。
たとえば、進捗管理システムを自社で開発しており、顧客がスマートフォンで作業工程が確認できるようになったことで、設計変更が容易になったり、顧客の立ち会い回数が減ったりするなどのメリットが生まれています。
これはハイテクを用いたDX化ですが、その一方で「工程管理ボード」というマグネットシートを用いた進捗管理も同時に行なっています。一見ローテクに見えますが、ボードの前で従業員たちが考え、話し合うという「対話」の場として大きな効果を発揮しているといいます。
そして、これらの体制構築によって、長時間労働がかなり削減されているそうです。さらには、進捗管理システムや工程管理ボードの他社への販売まで行なっています。
中小企業であっても、人事戦略を経営戦略に位置づけて、人材の価値を引き上げることで中長期的に企業価値を向上させていくことが可能だと証明した具体例だということがご理解いただけたと思います。また、その企業価値向上に「働き方改革」が大いに役立っている例でもあります。
4.「3つの視点」から中小企業を見つめ直す
今回の締めくくりとして、「人材版伊藤レポート」に登場する「3つの視点」についてお伝えします。 人材版伊藤レポートで提示されている「3つの視点」は、次のとおりです。
①経営戦略と連動しているか |
②目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか |
③人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促し、企業文化として定着しているか |
山田茂会長は、平成不況の際に大阪府の外郭団体の無料セミナーを受講し、成功事例に衝撃を受けて、「最新の設備もなく、当社独自の技術があるわけでもない。それなら、製品を生み出す工場を『最高のセールスマン』にしようと考えた」そうです。
「工場」とは単なる設備ではなく、そこで働く「人材」と「組織」あってこそだと山田茂会長は認識され、数々の施策を講じられてきたので、①の人材戦略が経営戦略と連動しているという視点はクリアしています。
また、②のギャップの把握についても、若手育成に積極的に取り組むことによって対応する視点を有することでクリアしています。
そして、「工場丸洗い」のエピソードに象徴される行動変容を促していますし、スローガンにも「人が変わる、そして会社が変わる」という行動変容を掲げています。何より、原点である3S活動の「本当の目的は企業文化を創ることだとコンサルタントに教えられた」と山田茂会長は語っているように、今や海外の企業までその「企業文化」を見学に来る組織となっているので、③もクリアしています。
人的資本経営「3つの視点」は、中小企業にとっても身近な課題であることがご理解いただけたと思います。
ぜひ、本コラムをお読みの中小企業の皆様も、「働き方改革特設サイト」の実践事例に触れたうえで、「3つの視点」から自社の人材・組織マネジメントを改めて見つめ直してみてください。きっと大きな気づきが得られると思います。