1.「5つの共通要素」から中小企業を見つめ直す
前回は、中小企業が人的資本経営に取り組むための具体例を見ました。その際に、経済産業省の「人材版伊藤レポート 」が、3つの視点(Perspectives)と5つの共通要素(Common Factors)を提示している(あわせて「3P・5Fモデル」といいます)ことをお伝えしました。そのうち「3つの視点」については、前回のコラムの最後で具体例とともに説明しましたが、「5つの共通要素」については、まだ詳細を説明していません。
そこで、今回はその「5つの共通要素」から中小企業を見つめ直すことで、中小企業への人的資本経営導入のお役に立とうと思います。
2.「5つの共通要素」とは?
「人材版伊藤レポート 」で提示された「5つの共通要素」とは次のとおりです。
①動的な人材ポートフォリオ |
目指すべきビジネスモデルや経営戦略の実現に向けて、多様な個人が活躍する人材ポートフォリオを構築できているかという要素 |
②知・経験のダイバーシティ&インクルージョン |
個々人の多様性が、対話やイノベーション、事業のアウトプット・アウトカムにつながる環境にあるか |
③リスキル・学び直し |
目指すべき将来と現在との間のスキルギャップを埋めていく |
④従業員エンゲージメント |
多様な個人が主体的、意欲的に取り組めているか |
⑤時間や場所にとらわれない働き方 |
どこでも、安全かつ安心して働くことができる環境を整えることが、事業継続やレジリエンスの観点から必要 |
①動的な人材ポートフォリオ
「人材ポートフォリオ」とは、経営戦略に基づいて配置された人的資本の構成内容のことです。噛み砕いた表現をしますと、どのような経営目標のために、どのようなスキルを有した人材を、どのような部署や職務に配置しているかということを意味します。この人材ポートフォリオに「動的」という言葉が付されているのが重要なポイントで、その企業の現時点での人材やスキルから考えるのではなく、将来的な目標から人材の獲得や育成を考えることが求められます。
この「動的な人材ポートフォリオ」を中小企業の人材・組織マネジメントの観点からとらえ直したのが、本連載第1回の『「人材年表」の活用による、先回りした人事労務管理』だったのです。
人材年表とは、自社の人材を年齢別、部署別(スキル別)に整理したものです。第1回では、「人は誰でも年を取る」という視点での人材年表の活用法をお伝えしましたが、さらに「経営戦略に人事戦略を連動させる」という人的資本経営の視点を導入すれば、企業の成長戦略に必要な人材をどのようにして獲得し、育成するかのタイムスケジュールが明確になります。
②知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
ダイバーシティ(多様性)やインクルージョン(包括・包含)はあわせて「D&I」とも表記されますが、こちらも本連載第2回の『中小企業が「人的資本経営」を導入するための基礎知識』ですでに説明しています。企業がイノベーションの可能性を高めるためには多様な人材を獲得する必要がありますが、「多様でありさえすれば、それでよい」のではなく、人材を「協働」させることが必要で、そのためにインクルージョンが求められるのだということをお伝えしました。
「人材版伊藤レポート」では、「チームでの協働は日本企業の強みであったが、同質性の高いチームから多様なチームへと変わる中、社内及び社内外の協働の在り方も見直す必要がある」としています。
「知・経験」とは、経験や感性、価値観、専門性を意味します。社内でのイノベーションの可能性を高めるだけでなく、さまざまなステークホルダーの価値観やニーズを正しくとらえるために、多様な人材の獲得が求められます。
③リスキル・学び直し
こちらは、本連載第3回の『「働きがい」に「働きかける」ための人材・組織マネジメント』でお伝えしています。「人材版伊藤レポート」では、事業環境の急速な変化や個人の価値観の多様化の対応策として、個人のリスキル(スキルの再習得)・スキルシフト(軸足となるスキルの移行)、専門性の向上が必要としたうえで、企業が個人の学び直しなどによる自律的なキャリア構築を支援することが重要であるとしています。
さらに、リスキル・学び直しの中でも、特にITリテラシーやスキルの向上が必須としていますが、この点については本連載でも「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」対応を例にとって説明しています。その際に、技術的にはDX対応が可能でも、従業員の現状のスキルやマインドセットといった「ヒューマン」の要素が「壁」となってしまうという問題点を指摘しました。
④従業員エンゲージメント
リスキルや学び直しの「壁」を乗り越えるためにはどうしたらよいのか、という問いに対する答えとして、同じく本連載第3回の中で、従業員の「働きがい」に「働きかける」ために「エンゲージメント」や「組織コミットメント」といった指標を活用する必要があるというお話をしました。「人材版伊藤レポート」では、「従業員がやりがいや働きがいを感じ、主体的に業務に取り組むことができる環境を創り上げることが必要となる」としたうえで、「企業理念や存在意義(パーパス)、経営戦略やビジネスモデルを含めて従業員に積極的に発信・対話し、共感や納得感を得ていく取り組みを進め、定期的に状況を把握していく必要がある」としています。
「人材版伊藤レポート」にある「発信・対話」「定期的に状況を把握」という部分こそが、人材・組織マネジメントの鍵を握ります。
第3回の記事では、「測っただけ」「一度だけ」では効果を生まず、「対話」の中で「働きがい」について相互に確かめ合うステップを踏んでほしいとお伝えしました。
⑤時間や場所にとらわれない働き方
このように、「5つの共通要素」のうち、①~④はすでにお伝え済みで、しかも中小企業においても十分に実行・実現可能なものだ、ということがおわかりいただけたと思います。さて、「5つの共通要素」のうち、⑤時間や場所にとらわれない働き方については、「人材版伊藤レポート」に「新型コロナウイルス感染症への対応の中でも顕在化したように、いつでも、どこでも、安全かつ安心して働くことができる環境を平時から整えること」とあるとおり、コロナ禍対応が大きな要因となっています。
コロナ禍は、10年はかかると思われていたデジタル転換を一気に推し進めた面があります。その象徴が在宅勤務やリモートワークの大幅な普及です。これによって、時間や場所にとらわれずに働ける人が大幅に増え、従業員のワーク・ライフ・バランスの推進にも貢献しました。
一方で、対面とは違う業務の進め方で、特にコミュニケーションの面で大きな課題が浮かび上がるという現実も生じています。
この点について、「人材版伊藤レポート」では、時間や場所にとらわれない働き方をする多様な個人を束ねるためのマネージャー層のリーダーシップと、リモートワークでのコミュニケーションの在り方への対応という課題を提示しています。
これらの課題は、多様な人材を獲得・育成し、「対話」によって「協働」させるという、すでに説明した①~④の「共通要素」への対応の延長線上で解決されるべきものだといえるでしょう。
3.人的資本経営に欠かせない「働き方改革」という視点
前回、厚生労働省の「働き方改革特設サイト 」の「中小企業の取り組み事例 」を紹介しました。その際に、人的資本経営の観点からも参考になる事例の宝庫という表現をしましたが、「5つの共通要素」の⑤時間や場所にとらわれない働き方についても、参考事例が豊富にあります。事例の紹介文に出てくる言葉を取り上げてみますと、「週休4日制」「短時間正社員制度」「現場も事務も全ての社員がテレワーク」「場所や固いルールに縛られることなく自分を磨く働き方」「いつでも、どこでも、誰とでも仕事ができる働き方」「目指すは「場所や時間にとらわれない働き方」」「柔軟な働き方」などなど、いろいろとあります。
そもそも「働き方改革」とは、働く人が「個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方を自分で「選択」できるようにするための改革 」です。「5つの共通要素」の⑤時間や場所にとらわれない働き方は「多様で柔軟な働き方」の一部なのです。その意味で、人的資本経営は「働き方改革」なくして実現できないものだともいえるでしょう。
その「多様で柔軟な働き方」の1つが、「副業」です。大企業から導入が進んだ働き方ですが、最近では中小企業でも副業解禁への動きが見られます。「5つの共通要素」の①に動的な人材ポートフォリオがありますが、この「動的」という観点は「副業」をも見据えるものだと考えてみてはいかがでしょうか。
「副業」と聞くと、つい、自社の人材が他社で働くというように思われる経営者や人事労務担当者も多いかもしれません。しかし、逆の発想、つまり自社に副業人材を招くという方法が、中小企業の抱える困難の解決策になる可能性があります。
中小企業は人材難で採用難という困難を抱えていることが多いですが、「副業」を希望する人材ならば、自社に招き入れられる可能性が一気に高まるかもしれません。
たとえば、すでにDX化に対応した経験のある人材を曜日限定、時間限定で招いてみることは、十分に可能だと思います。これも立派な「人への投資」です。その際に、リモートワークでも構わないという条件を付すれば、対象人材は全国に広がるわけですから、人材獲得の可能性がさらに上がるでしょう。
実際に、どのように副業人材が活躍しているかについては、経済産業省の「中小企業への「兼業・副業人材」活用推進におけるヒント集 」などを参考にしてみてください。
「働き方改革」の道のりを歩むこともまた、人に投資する人的資本経営なのです。