1.「三位一体の労働市場改革」とは?
前回は「ジョブ型雇用」とは何か、なぜ注目されるのかといった点について、基本からご説明しました。記事掲載後に、政府の「新しい資本主義実現会議(第16回)」において、「三位一体の労働市場改革の方向性」についての議論が行なわれ、ジョブ型雇用も取り上げられました。≫ 連載第6回:『「メンバーシップ型雇用」から、注目の「ジョブ型雇用」へ――中小企業はどう対応すべきか?』参照
そもそも「三位一体の労働市場改革」とは何を意味するのかについてご説明する必要があると思います。
これは、①リスキリングによる能力向上支援、②個々の企業の実態に応じた職務給の導入、③成長分野への労働移動の円滑化によって、労働市場を持続的な賃上げを可能とする構造へと改革しようというものです。
具体的な指針(以下「指針」といいます)は6月までに策定されるとのことですが、現段階でも「三位一体労働市場改革の論点案」(以下「論点案」といいます)が公開されています。
まずはその内容に沿って、中小企業の人材・組織マネジメントに与える影響などについてお伝えしていこうと思います。
2. リスキリングによる能力向上支援
本連載の第3回で、リスキリング(スキルの学び直し、新たなスキルの獲得)が、「働きがい」に「働きかける」マネジメントにとって重要になるというお話をしました。不確実性の時代に対応するためには、社会の変化に柔軟に対応し、新たに身につけたスキルを自社のために役立てようとする人材育成が必要だからです。リスキリングは「人材版伊藤レポート」で取り上げられている「5つの共通要素」の1つにもなっています。≫ 連載第3回:『不確実性の時代だからこそ実践したい!「働きがい」に「働きかける」ための人材・組織マネジメント』参照
リスキリングの必要性については強調しても強調しすぎることはないほどですが、「論点案」の中身は中小企業の立場からすると、やや警戒心を持って受け止める必要があるのも事実です。
どういうことかと言いますと、三位一体の労働市場改革はリスキリングだけでなく、成長分野への労働移動の円滑化も目指すものだからです。「論点案」の前文にも「内部労働市場と外部労働市場をシームレスにつなげ、労働者が自らの選択によって労働移動できるようにしていく」とあります。能力ある人材を成長産業へ移動させることで、日本経済をさらなる成長に導くことこそが、政府の目指すところです。 リスキリングによって新たなスキルを得た人材が社外に移動(転職)することは、日本経済全体としては良いことであっても、人材を流出させてしまう側の企業にとっては大きな損失になりかねません。一方で、労働移動の円滑化は、新たな人材を求める企業にとっては大きなチャンスですので、この問題は置かれた立場によって見え方が変わることにも注意が必要です。
政府はリスキリングを単なる能力向上支援策としてではなく、労働移動の円滑化のための策であると位置づけようとしています。このことは、現在は企業経由が中心となっている在職者の学び直し支援について、5年以内をめどに過半を個人経由の給付へ転換しようとしていることからも明らかです。支援策が個人経由の給付となることは、従業員の主体的な選択によってリスキリングを行なうことにつながります。「論点案」でも「労働者が自身の有するノウハウやスキルに応じて」リスキリングの内容などについてキャリアコンサルティングを受けながら「適切に選択できるように」という表現となっており、従業員の主体性が前提です。
この転換は、従業員の「キャリア自律」(個人が自らのキャリア形成について主体的に選択し、行動すること)の意識を高める方向に作用します。
これ自体は「働きがい」を高めるために必要なことでもあるのですが、問題はその先で、高めたスキルを他社で活用するという形での「働きがい」を求めることになるリスクもあるということです。これもまた、日本経済全体としては避けられない流れなのでしょう。いわゆる「日本型雇用システム」の特徴である終身雇用は終焉を迎えつつあり、企業任せのキャリア形成から個人主体のキャリア自律へと必然的に転換を迫られる面もあるためです。また、もう1つの特徴でもある年功序列型賃金では、リスキリングでスキルを高めた従業員を正当に評価することが難しいのも事実です。
従業員のリスキリング自体は企業の存続や成長のために欠かせませんが、同時に人材流出のリスクについても正面から向き合う必要があるということです。 このリスクへの対応について、即効性のある対応策はないのが正直なところですが、本連載の第4回でお伝えしたように、人材を適切に活用し、時代に対応した魅力と活力のある企業になるための地に足のついた人材・組織マネジメントを行なっていく他はありません。
≫ 連載第4回:『大きな気づきが得られる! 中小企業が人的資本経営に取り組むための具体例』参照
不確実性の時代であっても、経営者が確たるビジョンを示すことは可能です。人的資本経営では人材戦略が経営戦略と連動することが求められていますが、従業員が自社でスキルを活用し続けたいと思える「働きがい」のある企業文化の醸成も大事な人材戦略です。
3. 個々の企業の実態に応じた職務給の導入
「働きがい」の確保のためには、適正な賃金水準の設定も欠かせません。この点に関して、前回は職能給中心の賃金制度が時代に合わなくなっている面もあることをご説明しました。このような問題意識を背景に「論点案」では、「職務給の個々の企業の実態に合った導入」について触れられています。詳細は前述の指針で初めて明らかになりますが、現時点でも「職務給(ジョブ型雇用)」の「目的、ジョブの整理・括り方、これらに基づく人材の配置・育成・評価方法、ポスティング制度、賃金制度、休暇制度」などについて示されることがわかっています。「個々の企業の実態に合った導入」とあるとおり、指針は多様なモデルが示され、自由度を持たせたものになるようです。
特に注目すべきは、ジョブ型雇用(職務給)の導入を行なう場合においても、「スキルだけでなく個々人のパフォーマンスや適格性を勘案することも、あり得ることを併せて示す」とある点です。前回、ジョブ型とは「職務に値札をつけ」て人を配置するもの(適所適材)で、成果主義とは異なるとご説明しましたが、「指針」では「パフォーマンス」を勘案することも提示されるそうです。そうなるとこれは、適所適材+成果主義の日本版「ジョブ型雇用」というものになりそうです。実際に明らかになった時点で、中小企業への導入可能性などについて触れたいと思います。 その他には、これは上場企業が対象の話とはなりますが、現在、有価証券報告書で求められている人的資本の情報開示についての参考指針である「人的資本可視化指針」についても、三位一体の労働市場改革の指針の内容を踏まえて今年末までに改訂が行なわれるそうです。
4. 成長分野への労働移動の円滑化
「論点案」では、労働移動の円滑化の項目で、現在、自己都合離職者が失業給付を受けられるまでに2か月の給付制限期間が設けられている要件を短縮する方向という記載もなされています。具体的には「7日程度」という報道もなされています。また、退職所得課税制度について、勤続20年を境に勤続1年あたりの控除額が40万円から70万円に増額されることが、労働移動の円滑化を阻害しているため、見直しを行なうべきではという意見も記載されています。現状の退職所得課税制度は終身雇用(長期雇用)を特徴とする日本型雇用システムを前提としたものですので、その終焉が現実的なものとなったことの現れの1つでしょう。とはいえ、この税制改革には長年勤続されてこられた方々の抵抗も予想されるところです。
5.「人を遺す」ための人材・組織マネジメント
個人主体のキャリア形成の時代になりつつあるとはいえ、企業は企業で経営戦略に適合した人材を確保するために、主体的な人材戦略を構築し、実践していく必要があります。一見すると個人と企業が矛盾してしまいそうな印象も受けますが、そうではなく、「主体性とスキルのある個人」を企業がどう採用し、育成し、活用するかという視点で発展的に捉えていくべきでしょう。
小島一貴著『人を遺すは上』(日本実業出版社)は、プロ野球の監督であった故野村克也氏のマネージャーを長年勤めた著者が、野村監督の言葉を書き留めたメモを元にしてまとめた書籍です。本書は単なる野球関連書籍ではなく、人材・組織マネジメント関連の書籍としても読まれるべき1冊です。それは本書の最終章が「人材育成論・人生論」であることにはっきり表れています。本書は全編にわたって含蓄のある野村氏の言葉が収録されていますが、最後に紹介されているのが「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上」という本書のタイトルの由来ともなった言葉です。
これは戦前に医師、官僚、政治家として活躍した後藤新平氏の言葉なのですが、野村氏が好んで口にしたことで、さらに知られるようになりました。
現在のプロ野球では東京ヤクルトスワローズの髙津臣吾監督など、野村氏の「教え子」が多数指導者として活躍していますが、その事実が野村氏の人材・組織マネジメントがいかに優れていたかの証明でしょう。野村氏は人材発掘、人材育成、人材活用について心を砕き、その結果、プロアマ問わず野球界に多くの人材を遺しました。野村氏は「弱者の兵法」を標榜し、「野村再生工場」と呼ばれるほど多くの人材を再生した方でもあります。
野村氏の取組みは、人材難という弱みを持つことの多い中小企業が、「主体性とスキルのある個人」をどう採用し、育成し、あるいは再生し、そして活用するかという課題へのヒントに満ちています。
リスキリングを人材再生の手段としても捉え、有能な「人を遺す」、それも「自社に遺す」という観点から「働きがい」を生む人的資本経営に取り組むことで、活路を開くことをぜひ検討していただきたいと思います。