「スパルタ式は時代にそぐわない、選手の自主性を尊重して指導すべきだ」「しかし、結果を出すにはやはりハードな練習で鍛えなければ」──学生スポーツの指導者に共通する葛藤を、高校野球の名将として知られる帝京高校・前田三夫名誉監督も抱えていました。長年の指導経験から得た、前田監督の結論とは? 著書
『いいところをどんどん伸ばす』で明かしています。
(写真:上野裕二)
「教育」と「自主性」、そのバランスの重要性
指導者というのは常に迷いが生じるものです。私自身、3度目の甲子園優勝を果たした90年代半ば以降は、「勝利至上主義の野球」「帝京の野球はもう古い」などと言われていました。「スパルタ式で選手をしごいて徹底的に鍛えるやり方は、これからの子どもたちには通用しない」──。果たして本当なのかと、私は悩みました。
勝つためにはハードトレーニングの期間は絶対に必要
たしかに1996年春のセンバツに出場したときに、夏春連覇がかかっていましたが、初戦の岡山城東戦で5対6と敗退すると、夏も東東京予選で敗退しました。翌年も春夏甲子園に出場できずに終わりましたから、そうした外野からの声は嫌というほど耳に突き刺さってくるのです。
同じ時期に出てきたのが、「自主性を重んじた指導」でした。これは選手を大人扱いして練習の一切を任せるという考え方に通じるかもしれません。
けれどもそうしたやり方をよくよく見ると、選手たちのほうで厳しい練習を意図的に避けているように見えました。選手を鍛え上げるときには、キツい思いをする練習をしなければならない時期というのは絶対に必要なのです。
厳しいトレーニングの先には全国制覇がある
たとえば、夏の新チームに入った直後、冬場の体力強化の時期、最後の夏の予選前の5月から6月にかけてと、いずれの時期も選手を追い込んで鍛えるにはもってこいのタイミングです。
ところが自主性を重んじるチームというのは、そうした肝心な時期に平たんな練習に終始していた。「えっ、この程度の練習しかしていないで勝てるのか」、私はそうした疑問が拭えませんでした。
結果、そうしたチームは予選の早い時期で敗退していました。最後の夏もチーム全体がどこか乾ききっていて、盛り上がりに欠けたまま敗れ去っていくといったチームを、私はいくつも見てきました。
選手が苦しいときは、指導者も同様に苦しい
こうなると私の指導の中でひとつの答えが出てきます。
「高校生に『自主性を重んじた指導』をしていても、一番鍛えなければならない時期にレベルを上げた練習をしなければ、やはり結果はついてこない」
自分の指導方針は間違っていなかったという確信です。しかし、同時にこうも考えるのです。
「ただし、何でもかんでも指導者が『ああしなさい、こうしなさい』と指図して指導するのもよくない。選手に考えさせる練習も取り入れていく必要がある」
要はバランスが大事だということです。厳しく締めるところは締める。一方では選手たちに考えさせて、苦しい局面を乗り越えさせていくように仕向けていく。
1972年就任、全国優勝3度の強豪チームに育て上げた。21年9月から名誉監督
選手が苦しいときというのは、指導者である監督も同じように苦しいのです。仮にシード校になって夏の予選を勝ち抜こうとすれば、東東京の場合は7つ勝たなければならない。甲子園に出場して1回戦から決勝まで勝とうとすれば、6つ勝たなければならない。つまり、夏に甲子園優勝を果たそうとするならば、13連勝しなければ栄冠にたどりつかないというわけです。
この間、どこかでひとつでも負けたらそこで終わってしまう。
勝ち続けるためには幾多と訪れる苦しい局面を乗り越えなくてはならないのですが、選手任せの練習だけに終始してしまうと、結果を出すのが難しいということです。
自分の指導に自信を持つことは必要です。選手を指導するにあたって、「これだけはどうしてもやり通さなければならない」という信念があるからこそ、選手たちは監督を慕ってついてくる。一方で自分の指導に迷いが生じたときには、迷わず突き進むのではなく、一度立ち止まって大いに悩むべきです。
このとき大切なのは、「結論を急がずに、いろいろなケーススタディを見つけて分析すること」。複数の事例から「この場合はこういう結果になる」という傾向をつかみ、そこから自分の指導方針を軌道修正していく。そうすることで、指導者として殻をひとつ破っていくことにつながると、私は考えているのです。
帝京高等学校硬式野球部名誉監督。千葉県袖ケ浦市出身、木更津中央高等学校(現・木更津総合高等学校)・帝京大学卒業。木更津中央高等学校時代は三塁手として活躍するも甲子園の出場経験はなし。大学時代は4年の秋に三塁ベースコーチとしてグラウンドに立っただけで選手としては公式戦出場なし。練習を手伝っていた縁で1972年帝京大学卒業と同時に帝京高校野球部監督に就任。
1978年春の選抜高校野球で甲子園初出場を果たし、1980年春は伊東昭光投手を擁し準優勝。以後、練習場である校庭が(こちらも強豪となる)サッカー部と共用という恵まれない環境に長らくありながら、89年夏、92年春、95年夏と全国優勝3度の強豪チームへと育て上げた。同校野球部は高校野球ファンや国内メディアから「東の横綱」と呼ばれるほどの甲子園強豪校となる。
教え子となるOBに伊東昭光(元・ヤクルト)、芝草宇宙(元・日本ハム-ソフトバンクなど)、吉岡雄二(元・巨人-近鉄-楽天など)、三澤興一(元・巨人-近鉄-ヤクルトなど)、森本稀哲(元・日本ハム-DeNA-西武)、中村晃(現・ソフトバンク)、杉谷拳士(現・日本ハム)、山﨑康晃(現・DeNA)、原口文仁(現・阪神)、松本剛(現・日本ハム)、清水昇(現・ヤクルト)、タレントの石橋貴明(お笑いコンビ・とんねるず)など多数。2021年8月30日、監督を退任。現在は名誉監督としてチームを支え続けている。